|
●≪解説≫
現代の日本では選ぶのに苦労するぐらい物があふれています。私の子供の頃は食べ物にしてもお菓子にしても、おもちゃにしても、こんなに与えれていませんでした。選択する余地はなかったと思います。ところが、子供は着る服から、食べるもの、遊ぶ物、多くの物に囲まれ自分で選択することができる状況にあります。そして、自分の満足がいくものが与えられた時に喜び、そうではない時に泣き叫びます。これは我が家だけなのかもしれませんが。
そういう時代だからこそ、物が全てではなく、目に見えないものがあり、それこそが大切なのだと感じて欲しいと願っています。
生長の家創始者・谷口雅春先生は次のようにお説きくださっています。
《円満な神の姿を小児の心にえがかせよ。完全な仏の姿を小児の心にえがかせよ。いかなる場合にも、自己が全能なる神または仏の愛の手にいだかれていてなんの危険もないものだ、という自信を子供の時代から人間の心に植えつけよ。幼児からのこの自信は将来のその人の運命を決するものだ。
(『生命の教育』120頁)》
子供には、物の移り変わりによって一喜一憂するのではなく、どんな時も神さまの愛に護られていることを深く感じて欲しいと願っています。(我が家で“神さまー、神さまー”とたまに私が言います。すると“なんじゃ”と長女が応えてくれます。これは以前、妻が言ってくれていた言葉でした)
青森に転勤し、通勤に時間がかからなくなったため、家族との時間がとれるようになり、毎朝、家族で仏壇の前に座り、一日のはじめにご先祖様に感謝の祈りをしています。長女はきちんと毎日正座して祈っていますが、長男と次女はできる時もあればまだ寝ていたり、起きていてもきちんと座れなかったりする日もあります。それでも、大きくなるにつれ長女のようにできるようになる日がやってくるでしょう。
神仏を礼拝することについて、谷口雅春先生は次のようにお説きくださっています。
《(前略)児童が八、九歳にも達したならば、毎日数分間ずつ静坐せしめて自分の生命力を自由に一ヵ所に集める練習を積ませることが必要である。この練習には父母と共に毎朝神仏に礼拝せしめる習慣をつけるが一等よいのである。その家の宗教が神道で、神の宮の前で礼拝する習慣ならば、その神の宮に精神を集めさせ、その家の宗教が仏教で仏壇の前で礼拝する家ならば、仏壇の中の仏像に精神をあつめさせ、その家がキリスト教で神棚や仏壇なしにお祈りをする習慣のある家ならば、掌を合わしてその手のひらに精神をあつめさせて礼拝さすのである。このことは子供にいろはを教えると同じほどに、いな、それよりもなお必要なこと
である。それによって子供はいっそう大いなる生命――われらの生命の親様――の聖旨に従って生きようという最初の敬虔な傾向をやしなうことになるのである。(『生命の實相』
頭注版 第14巻「倫理篇 下・教育篇」141〜142頁)》
自分一人で生きているのではなく、自分があるのは多くのご先祖様のおかげであり、どんな時も神様の愛に生かされているのだということを感じる子供であって欲しいと願っています。 |