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私が小学校6年の時に、父は手術後1週間ほど入院して他界しました。その日からしばらくの間、わが家は火が消えたような暗い寂しい生活に変わったのです。そして、「父親に会いたい」と、天に慟哭したい気持ちの日々が続いたように記憶しています。その寂しい思いを子どもながらに我慢していました。中学生か高校生の頃、やさしかった父を思い出しては何度も泣いた記憶があります。
父親の存在が大きく自分の生き方に影響を与えていたことは、子育てを経験してさらに実感するようになってきました。
父は、明治生まれの小学校にも満足に通えない貧しい家庭に育ち、およそ学問の世界には無縁な生活を送っていたようですが、『生命の實相』だけは仕事の合間に読んでいました。また、神想観と聖経読誦を日課にしている父親の後ろ姿は今でも鮮明に覚えています。私は、父が溶接業を営み、沖縄県の真夏の暑い日差しを受けながら汗だくで働く姿を毎日見ていました。このことが子どもながらに両親を困らせるような悪いことはできない心理状況を生み出す基本になっていたようにです。
そして結婚後、子ども達(3人姉妹)を育てるうえで、亡くなった父親のように接していたと思います。しかし、やさしかった父とは正反対にどなって時には「うるさい。だまれ。」と、頭ごなしに叱り飛ばしたこともありました。
わが家は、閑静な住宅地にありましたので一番賑やか(?)な家庭であったと思います。家族全員、声が大きいので、「あの家は動物園なのか」と思われる程の親の叱り声、姉妹げんかも日常茶飯事のごとくにくり広げられました。隣近所はうるさい思いをしていたに違いありません。
こんな事もありました。子どもが中学生のころ学習塾に通わせていて、車で送り迎えをしていたころです。ある時、娘本人の支度が遅れたにもかかわらず、車の中で「お父さん、早く運転してよ」と
言うのです。これには私も頭にきて、「おまえの支度が遅れたからこうなったんだ。自分の責任を人のせいにするな」と、どなりつけました。
つまり、子どもも自分の意見を主張することができる環境であることも大事であると同時に、子どもが反論したり、悪口雑言を言っても断固として父親の意見を貫き通すこともたいへん重要なことだと思うのです。なにしろ、子どもはまだ人生経験も浅く皮相的な考えからわがままを言うことも多々あるため、親が正しいと判断したことには従ってもらうという強い意志を示すことも大切なことだと思っています。
(平成17年12月20日記)
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