わが家は夫婦ともに大阪出身で、結婚以来ずっと東京で暮らしている典型的な核家族です。親戚もほとんど関西にいますから、子供たちにとっては、身近かに暮らしている身内が亡くなるという経験はありませんでした。
また、最近の傾向として、老人介護施設に入る方も多くなってきており、3世代、4世代同居の大家族であっても、子供が「死」と自然に対面する機会は少なくなっているのではないでしょうか。
最近の子供たちは、「人間は死んでも生きかえる(その肉体のままでという意味で)」と思っている子が少なくないといいます。子供たちを対象にしたある調査でそのような質問に「ハイ」と答えたのは、小学1年生よりも中学1年生のほうが多かったということです。最近の子供の遊びの中心はテレビゲームになっているため、ゲームオーバーしてもリセットすれば、また主人公が動き出し“一(イチ)”から始められると考えるのと同じような感覚で、人間の「いのち」もリセットできると考え、年を重ねても同じ考えのままでいる人もいるようです。
私達が子供の頃には虫取りなどの遊びの中で、生き物と接触して自然の中で「生」と「死」を学んだものでしたが、現在では頭で「生きている」ということは分かっていても、その動物に温もりがあることを実感できないようです。たとえ子供からゲームを取り上げたとしてもその温もりを知ることはできません。それを知るためには「いのち」を実感できる場や機会を提供してあげなければなりません。
例えばウサギを見るだけだと大抵の子供は「かわいい」と言うだけですが、ウサギを抱っこさせた後だと「ふにゃふにゃしていた」とか「温かった」「やわらかかった」という具体的な感想が返ってきます。そしてやがて、子供はウサギを両手でかかえ、全身を丸めて包みこむようにします。この瞬間にウサギの「いのち」を子供は感じ取っていきます。
大人が想像できないくらい子供の感性は素直です。長男がまだ幼稚園に通っているころ、一緒に道を歩いていると、風が吹いてきて道端の草がユラユラと揺れました。それを見た長男が「草さんが喜んでいる」と歓声をあげました。大人ではできない表現を子供はできるんだなぁと感心したことがありました。
谷口雅春先生は次のようにご教示くださっています。
≪ さてしからばこの何事にも絶対に必要な直覚力を養成するにはいかにすべきか。先刻もいったように、幼時より子供の「神秘がる心」を押し消さないようにすることだ。神秘なことを神秘として教えよ。深く考えれば実に神秘であるところの現象を、当たり前の茶飯事だとして、見のがしてしまうような習慣をつけてはならぬ。人間を心臓というモーターで動く機械だと教えてはならぬ。草木をただの毛細管現象で生長する機械だと教えてはならぬ。神仏を偶像であると教えてはならぬ。あらゆる物にやどる生命の神秘を教えよ。神秘に驚異し、生命を崇敬し、その生命の神秘に一歩でも近づくことを名誉と思い、生命を合掌礼拝するように子供に教えよ。
ああ! 生命の神秘を驚異し尊ぶ心−−隣人愛も、生物愛護も、敬虔なる宗教心も、画期的な科学的発明も、偉大なる哲学も、妙なる芸術も、それから実業界のすばらしき成功さえも、皆この生命の神秘を礼拝する心によって得られるのだ ≫
(『生命の実相』第14巻161〜162頁)
子供は神の子であり、誰にも「慈しむ心」が宿っています。ですから、私たち父親はこの心を引き出し育てる機会をつくってやることが大切だと思います。
(平成20年1月30日記)