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●解説>>
親は子供を心から愛しています。ですから子供の不完全な姿を見れば、それを何とか直したい、良くしたいと思うのは当然です。
そして、その不完全な点を改善する為に注意したり、叱ったりします。 この様な行為が教育的な行為であると一般的に信じられています。
とかく子供を良くしたいと思えば思うほど、子供の不完全な点が動かし難いその子の本質のように思えて、益々マイナスのイメージを広げてしまうわけです。そのマイナスのイメージに捕らわれて、心配したり恐怖しながら接するものですから、勢い余って感情的になって、子供の人格までも傷つけてしまう言葉を発してしまいます。それで子供が良くなるのなら良いのですが、一向に改善しないばかりか益々子供の心が親から離れていってしまいます。
子供の幸福のために一所懸命指摘しているのに、何故こんなにギスギスした関係になってしまうのだろう。一体どうすればよいのだろう。まじめなお父さんであればある程、きっとこの様な想いを一度ならず
、されたことがあるに違いありません。
こういった問題に対して、谷口雅春先生は、『生命の實相』頭注版第13巻の140頁から141頁に、次の様にお説きいただいています。
<<今までは教育にせよ、人生における諸般の訓練にせよ、たいてい本当にあるものを現わすために、「ここが現われておらんぞ」といって、その現われておらない悪いところを指したものです。
「お前は腹立てているな。腹立てることは、値打ちのないことだから止(よ)せよ」という。すると、相手はますます腹を立てるというようなぐあいだったのです。「悪しきもの」は「真価がないこと」であり、「本当にあるもの」は必ず価値があるとすると、「悪しきもの」を指さして、そこから善きものを生み出そうとすることは、「無い」ものを指さして「有る」ものを呼び出そうとする愚かさであったのです。「悪」ということは実在が現れていないということ、本当にある価値が現
われていないということであって、決して積極的存在ではないのであります。ですから、その無い現われに執着しないで、本来無い「悪」が現われているのは心の指示力で、あるかのごとく現わしているのですから、心を「悪」から放下して光明の言葉を発せば消えるのであります。ところが、これまでの教育は、無い「悪」をわざわざ言葉に現わして指摘し、これを表現して、ますます強く心に思い浮かべますから、ない「悪」が言葉の支持力によって、消えないのであります。今まで教育盛んにしてますます「悪」が盛んになったのは、「悪」を指摘し、「悪」を心の世界に描くようにしたからであります。>>
このお言葉を今一度、いや何度も噛みしめて下さい。
本当にあるものとは何なのか。
気高く清らかで、柔らかく暖かく、完全円満な光り輝く神そのものの姿こそ、子供の本当の姿であります。
悪い点、ダメなこと、不完全な事と言いますのは、それは本来の完全な姿が顕れていない状態、いわば光が覆われている状態です。実在しないということです。その闇を、闇だ闇だ、暗い暗いと騒いでも決して明るくなるわけではありません。それでは、どうすれば良いのかと言いますと、ただ光を灯せば良いだけの話です。
子供の不完全な姿に固執しないで、捕らわれないで、それが本当の姿であると信じないで、腹を立てないで、心配しないで、ただその子の完全円満な本当の姿を信じて、その子の今顕れている良い点を見つけて、はっきりと表現していきさえすれば、光が闇を消すように、その不完全な状態はいつの間にか消えてしまうのであると、お示しいただいております。
子供の不完全な点を探して叱るのでなく、子供は完全円満な良い点を探して讃嘆することが「生長の家の教育法」の基本的な考え方であります。 (5月10日記)
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