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●解説>>
大人は経験がありますので、こういうときにはこうすればよいと、よく分かっています。
ですから、子供が何か失敗しますと、「それはこうだから失敗したんだよ」とすぐに言いたくなってしまいますね。そして、それを指摘してやる事が、教育だと思われています。その事が必ずしも悪いということではないのですが、「何でも知っているお父さんに聞けば、何でも答えてくれる」となりますと、自ら思考する力を弱めてしまったり、発見の喜びを子供から奪ってしまうことになりかねません。
子供が様々な体験を通して、その体験の中から、物事の原理原則を学ぶ様に導くことが教育的な関わり方なんですね。
その為には、すぐに答えを言わないで、「いい勉強をしたね、今度同じことが起きたらどうする?」と尋ねたり、「自分の力で立てるんだよ、あなたの中にあなたを導く神様がいらっしゃるんだよ、」「自分を信じるんだよ」と、内なる囁きに耳を傾けながら、体験を通して自ら悟る様に導くこと、外に助けを求めるのでなくて、内なる力を自覚できる様に導くことが大切なんですね。
子供が体験を通して心底「ああ、こうすれば良かったんだなぁ…」と、自ら悟ったこと、これは子供の本当の力、一生の財産になります。ですから子供が苦い体験をして、その中で何を学習したのか、子供の中に答えがあると信じて「尋ねる」こと、これが引き出す教育の一つの方法になるわけです。
もちろん子供に尋ねて、何か素晴らしい答えが返って来なくてもいいし、むしろ稚拙な言葉が返ってきて当然です。そのとき、「ああ、やっぱり子供だな、そうじゃないよ、こうなんだよ、まだ分からないのかな…」と、子供の幼稚な考えを否定してしまいますと、それは折角出た双葉を摘み取ってしまうことになるんですね。これが、内なるものを引き出すときの重要な考え方になります。
それは、どの様な大木も双葉の時代があるということです。どんなに偉大な数学者も「1たす1は、2」から出発しているということです。
「お父さんはね、そんな1たす1は、2なんてどうでもいいんだよ、微分・積分を解いて貰いたいんだ。なっ、頼むから、」
と言ってもそれは無理な相談ですね。まだその段階に達していないんですから、「足し算が良く解けたね。よく分かってくれたね」と、その双葉の段階が認められて、次ぎに進むわけです。
そして本葉が出て、「ああ良く出てくれた」と誉められて、それから茎が伸びて、「よくぞ伸びてくれた」と認められて、そして花が咲いて実が実るわけです。外側から付け足したり接ぎ木をしたのではありません。全て子供の内から育ったものです。
双葉の段階では双葉の完成を目指す、本葉の段階では本葉の完成、その完成の連続、歓びの連続の果てに、その子の花が咲き、実が実る、ということになるわけです。
この反対に、花や実だけを完成と考えますと、双葉や茎は未完成な状態ですから、まだ駄目だ、まだ幼いと、嘆いていなければなりません。どの子にも、神様がその子だけに植え付けた生長のプロセスがあります。
そのプロセスは、人と違っています。違っていることの方が正常に育っていると思って間違いないですね。ちょうどトランプのカードをめくるように、次に何が出てくるか分かりません。それは子供によって違うわけです。言葉が早い子供もいれば、体力的な部分が先に出てくる子供、または数的なものに興味を持つ子供、昆虫や動植物あるいは、創造的なものに興味を持つ子供……、人それぞれです。一つ育っては、また次に移行してゆくわけです。
折角出てきた芽を摘み取って、こうでなければならないと、親の価値観で接ぎ木をしたり、詰め込むのではなくて、その今出た芽、きざしているもの、内からなるもの、その子に神様が植え付けた成長のプロセスを、讃嘆しながら、拝みながら、育む教育。素晴らしいものが子供の中にあって、それが出口を求めているのだ、と考える教育、これが「生長の家の教育法」です。
最後に生長の家の創始者である、谷口雅春先生がお書きになりました『生命の實相』頭注版第13巻に、教育とは何かについて示されたご文章を掲載させていただきます。
<<教育というものは、外からつめこむのではなくて、本人の内に宿る天分をひき出すのが本当の教育なのであります。「おしえる」ということは「押し入れる」という意味から来た言葉であります。これはその詰め込むことを教育だと考えて作られた古い言葉でありまして近代の教育はエジュケーションである。エジュケーションとは引っぱり出すことをいうのであります。本人の内に本来宿っている無限能力を
ひき出す。このエジュケーションこそ教育の本旨であるのであります。>>
(平成15年7月9日)
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