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●解説>>
●父親の後ろ姿
私の父親
(幼稚園園長・僧侶)が私たち4人の子供たちを育ててくれていた頃、檀家まわり(法事)や、教育講演会への出講などが多く、ほとんど家にいなかったことを覚えています。私たちは子供心に父親という存在は、常に家にいなくて当たり前、母親が子供を育てる第一人者なんだ……という思いで育ってきました。
でも、父親の存在というのは、姿こそ家にいなくても、確実に存在感だけはあったことを覚えています。即ち、人生への姿勢、人様のお役に立つ生き方などを直接には言葉で教えてはくれませんでしたが、今にして思えば、その後ろ姿で教えられたような気がします。

その父親はもう他界して久しくなります(そういえばこの文章を書いている今日は、父親の祥月命日です)が、その父親の言葉の中に唯一、発せられた私への願いがありました。
「将来はお坊さんになるんだよ……」
私はお坊さんになるのが嫌でいやでたまらず、別の職業(高校教員)に就いたのですが、運命の見えない糸というのは不思議ですね。ちゃんと「生長の家」という万教帰一の宗教の道を歩むことになりました。本部講師という立場で「求道」と「伝道」をさせていただく者の一人として、宗教を歩む立場は僧侶そのものではないかと、今は感じている喜びの毎日です。
何か、私が父親から学んだ人生を、今まさに息子がよく似た形で示しているような気がしてなりません。『宗教の道だけは歩みたくない』と逃げの一手だった自分が、今まさに宗教の道を歩むように、『音楽よりも遊ぶ方がよい』と逃げの一手だった息子から、音楽の嬉しい贈り物を受ける、そんな因縁をしみじみ感じたことでした。
●全託と辛抱
生長の家総裁・谷口清超先生は、 『「無限」を生きるために』の中で、このことについて、「神にすべてを委ねる」という項で、現象に引っかかってはいけないということを、次のようにお示しくださっています。
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言うまでもなく人間の肉体には死や病気が現れるが、本当の人間は不死・不滅の「神の子」であり「仏」である。この事を信ずるか否かで、人生そのものが変わってくるのである。何故なら、心が現象界を形成するからだ。例えば人を恨んだり憎んだりするのは、相手が悪いと思うからであろう。 しかし本当の人間は「神性・仏性」であるから、悪くはなくて、善なる本性そのものである。……<中略>…… そこでどうしても「神性・仏性」なる人間を心で観、その人を愛し赦すことを実行する練習が大切な“人生課題”となる。それは神や仏を信じていようがいまいが、そのことには関りなく、全人類に共通して言える「心の法則」であり、全ての人々は結局この一点にたどりつき、神の子らしい喜びと平安を得るものである。 けれどもこの“人生課題”を達成するためには、長年月の日数を要する。簡単にパッと結果を得るというわけには行かないのだ。何故なら、人生は永遠だからである。肉体人生だけが人生ならば、百年もすれば終末となるが、本当の人生は「神の子」としての「無限」を生きるいのちであるから、いくら進歩向上しないように見えても、そんな 現象に引っかかってはだめだ。何事にも辛抱して「待つ」心がなければならない。>> (谷口清超先生著『「無限」を生きるために』188頁〜189頁)
私たち父親は、家族や子供達が如何なる現象の姿を顕わし出そうとも、その奥に実在する本性(実相、人間・神の子、神性、仏性等々…)を見失うことなく見つめ続けることが人生の課題なのですね。子育てというのは、まさに“待つ辛抱”も必要なのかもしれません。 父親として、正しい信仰のもと、「希望」をもって待つことなのですね。それが「人生学校」であり、真の意味の「父親教室」なのかもしれません。
(平成15年8月16日) |