|
●解説>> 私達が子供の教育を考えるとき、他人や兄弟と比較して、かえって問題を起こしている場合が多いようです。
「もう少しこうして欲しい」「こうあるべきだ」と自分の子供時代や他の子供と比較して我が子をその尺度で縛ってしまいます。
「それが教育ではないか」と思われるかも知れませんが、かえって子供本来の力を発揮出来なくしてしまっています。
生長の家の創始者・谷口雅春先生著『光明法語』には次のような御文章があります。
<<真の愛は放つと云うことである。そのものの生命のままにそのものを行かしめることである。朝顔の蔓に牡丹の花を咲かせようとすることではない。小鳥を籠の中に閉じ込めることではなく、自由に山野に放つが如く、自分の子供を放つと云うことである。個人個人は神の創造の一つ一つの中心である。個人個人の自由を縛るのは、神の創造の一つ一つの中心を束縛すると云うことである。それは個人に対する冒涜であるばかりでなく、神の創造のみわざに対する冒涜である。>>(193頁)
それは、何故かと云いますとどんな姿に現れていようと誰の中にも、素晴らしい神の子なる本当の価値が存在するからです。ただその価値が出てくる段階で個性により、色々な状態が展開してくるので、とかく親は現れている状態が子供そのものと思ってしまい、悲観したり、劣等感に陥ったり、どうにか直さなければと現状の姿と格闘してしまうのです。
未完成を完成させるのが教育であると錯覚してしまうのですが、人間は外から色々付け加えて素晴らしくなるのではありません。植物に喩えますと種子の中にどういう花がどういう時に咲くかは目に見えない存在として最初からあるように、素晴らしい掛け替えのない価値が存在するのです。それが現れ出るときに、一律に生長していくのではなく、その子の個性によって咲き方も時季も違ってまいります。春咲く花もあれば、秋咲く花もあり、冬の厳寒にしか咲かない蝋梅のようなものもあります。
それと同じように、子供も色々な性格があり、伸び方も国語から伸びる子もいれば、国語が苦手で数学から伸びる子、また芸術的なものから伸びていく子もいます。なかなか芽が出てこないという子は、今あらゆる経験を通して魂の栄養を吸収している「根」の時期かもしれません。やがて双葉の時期、本葉の時期を通って花が咲き、花が散って実がなってきます。
障害を持っている子も、絵で喩えますと健常児は、絵の具が沢山ある油絵のようなもの、障害を持った子は墨絵で絵を描くようなもので、肉体は道具ですので、どちらが優秀ということは云えませんし、かえって墨絵の方が奥深い表現ができることもあります。
今の現れている欠点に不満を持つのではなく、言い換えれば現れている姿に理想を求めるのではなく、今の現状をまず受け入れて、内在価値に理想を求めて「この子には素晴らしいものが潜んでいる」と見方を変えていきますと、子供の本性を認めることになりますので、今どのような方向に向いる子でも、やがて個性天分を発揮してまいります。
子供にとって親に自分の本物(神の子の価値)を分かってもらえたときに、どれだけ嬉しいか計り知れません。子供の手本は、外にあるのではなく、子供の中にすでにあるのです。その子を外したら、その子を良くすることは出来ません。今の状態がどんなであっても、その今の中に必ず素晴らしい手本が潜んでいる事を確信して、善いところが見えたら、すかさず認め、「この子は今この問題を通して神の子の芽が出ようとしている姿」として捉え、じっくりとあたたかい目で信じて待つ事が大切です。
私たち夫婦が8人の子供を育ててきた経験から、この教えの素晴らしさをしみじみと感ずるこのごろです。(平成15年
9月30日)
|