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●解説>>
子供の病気に直面した時、私自身が「神想観」と「聖経読誦」に没頭したことは書いた通りですが、「病気の原因は父親のどこにあったのか」と思い悩んでいたときに、心に響いて来た言葉がありました、それは『聖経続々甘露の法雨』に、ある次のようなものでした。
『かかる罪が自分に報いられたりと思うことを止めよ、 かかる迷いがこの病いの原因なりと考うることを止めよ
病い本来無ければ
病いの原因も本来為し。
病も無く、罪も無く、迷いも無く、死も亦無しと知れば、
何の処にか恐怖存在せん。』
とあり、さらにこのあとに、
『汝は神の子なり、仏身なり、
金剛身なり、不壊身なり、
無病身なり、常楽身なり。
感覚主義、合理主義に陥りて
金剛不壊の常楽身を見亡うこと勿れ。
今すべての病者は癒えて
その病床より起ち上がらん。』
次男の病気を機会として、父と子のコミニュケーションが新たな展開になったことはありがたいことです。コミニュケーションは必ずしも会話ばかりではないんだということもわかりました。心と心のつながりの確認をするによって、さらに信頼と愛とが強くなっていくように思います。
また、生長の家の真理の正しい把握と実践により、どんな
問題も解決が可能であるということを学ばせていただきました。一家の柱である父親が戸惑わないためには、やはりこの真理を学ぶということが何よりも必要であると感じています。
それは子供は親の心の影響を受けるということからも大切なことだと思います。
『生命の實相』第30巻(『児童教育篇・聖典講義篇』)にはこう示されています。
<<形よりもまず心を
しかし、本当に子供を善くしたいと思う親は生活の形をよくする以上に、親自身の心をよくするように心がけねばなりません。ある人の子供が食物の好き嫌いをするというようなことでも、医者の方へ持って行けば、それを体質とか病気とか生理的方面に原因を求めますが、生長の家では、親の心に好き嫌いをする心、わがままを言う心の根源があるんじゃないかと、親みずからが反省するのであります。
たとえばMさんは生長の家へお入りになるまではキリスト教信者で忍従および犠牲一点張りで通してきた人で、好悪を言わずわがままを言わない人でありましたが、子供が食物の好き嫌いを言うとき、みずから反省なさいますと、慈善事業などのことで社会婦人として活動したいため外部へ行きたいというふうな時に、良人に「行ってまいります」と言うと「行かなくても良いじゃないか」と言われる。そんなとき言葉では「ハイ」と素直にお答えになるけれども、心の中では「あんなに言わなくても、行ったってかまわないのに」と心でわがままを起こしておった。その心のわがままが子供の食物の好き嫌いとなって現れておったのだということに気がついて心のわがままをわがままをお直しになりましたら、子供の食物の好き嫌いが直ってしまった。それくらいに親が心に描いていることは子供において形に現れるということがあるのであります。それですから、子供を教育するということは親自身を教育してはじめて全き教育ができるわけです。そういうふうに単に心に描くということでも子供が形に模倣することがあるのでありまして、われわれは子供をよくしようと思いますと親が心をよくし、生活をよくしなければならないのであります。>>(72頁〜73頁)
(平成16年11月2日記)
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