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●≪解説≫
生長の家創始者、谷口雅春先生著
『生命の実相』第十三巻に、「神の子の標準」について説かれています。
それはどういうお話かといいますと、ある生長の家の信徒さんが教員をされている小学校の絵の展覧会に、東京都の教育関係の役人さんが視察に来られたのです。
すると、その方は、一年生の作品を見る時には、「一年生」「一年生」と、二年生の作品のところへ来ると「二年生、二年生」と、自ら頷くように言いながら見て回っていたのです。
そこで信徒さんである教員の方が、どうしてそうしているのか尋ねてみたところ、「人間の心には一年生の標準もあれば三年生の標準もあるというように、いろいろの標準がある。最初は一年生の作品を見ているつもりでも、黙ってそれを見ていると、いつの間にか標準が狂ってきていわゆるその標準が流線型になってくる。それを言葉の力で、一年生の作品を見る時には『一年生、一年生』といっておれば、一年生の一定の標準で見ることができる」と言うのです。
それに感心した教員の方は、自分が生長の家に属していることを伝えた上で、こう言われたのです。
「『生長の家』の光明思想では、人は本来神の子であるというのです。ところがわれわれの心の中には、神の子の標準もあれば、罪の子の標準もある。それはちょうど、われわれの心の中に一年生の標準もあれば、二年生の標準も同じように潜んでいるようなものです。それを先生は言葉の力で、一年生の標準を出そうとする時には『一年生、一年生』と言葉でいわれた。それと同じように、われわれの光明思想団体では、言葉の力で常に『自分は神の子、自分は神の子』と呼ぶようにして、われわれの内にある善き行動の標準を言葉の力で引き出すようにするのです」と。
このことから、私は文字通り、二つのことを学びました。一つは、子供の年齢に合せて、視線を下ろすということです。遊びたい盛りの子供に、ただこちらの都合で「うるさい」とか「じゃまだ」というだけでは、子供とのコミュニケーションは成り立たないし、子供の求めていること
や子供が、「何をどこまでわかっているのか」が見えてきません。その子の成長段階に応じ、子供の立場、すなわち「標準」に立って、子供のことを見つめ、考えるのが、特に母親よりも子供と接する時間の短い父親にとっては大切なことだと思います。
もう一つの「神の子として見る」標準は、生長の家では基本でありますが、この例で教えられている通り、頭や理屈でわかっているつもりでも、言葉に出して表現しなければ現れてきません。家族の中で誉めるのは親も子も最初は照れくさいものですが、本当はどちらもその言葉を出すきっかけを待っているだけなのです。
何故なら互いに感謝し合うのが、当たり前の、本当の家庭生活だからです。
(平成18年12月1日) |