見ず知らずの赤ちゃんの泣き声を聞いて、その赤ちゃんのことを心配している自分に本当に驚いた経験を書かせていただきました。独身のときの私が、いかに自分中心の思考パターンの人間だったか、というお恥ずかしい話ですが、独身の時とは全く異なる自分の心の動きに本人が驚くという、何とも不思議な体験でした。独身のときには「雑音」にしか聞こえなかった他人の赤ちゃんの泣き声が、自分に子供ができた後では、なぜ「雑音」ではなくなったのでしょうか。
多くの人にとって「好き」なジャンルの音楽は、読書や仕事の時にBGMとして流れていると、かえって集中力が高まります。ところが嫌いなジャンルの音楽が鳴っていると「雑音=ノイズ」にしか聞こえず、注意力が散漫になって読書や仕事の能率が下がってしまいます。では、この場合の「好き」とは、どういうことでしょうか。
生長の家創始者・谷口雅春先生著『真理入門25章』の71〜72頁に、次のような ご文章があります。
《子供は親から分れて出たもので、元のいのちからいえば、親と子とは一体なのである。だいたい「愛する」ということは「あの子と自分とはいのちが一体である」と感ずることなのである。だから「愛している相手」が悲しい顔をしていると、その相手と一体だから、こちらも悲しくなるのである。その代り「愛している相手」がうれしい顔をしていると、その相手と一体だからこちらもうれしくなるのである。
》
このご文章から考えますと、「好き」とか「愛する」という気持ちは、「相手と自分が一体」との自覚であることがわかります。「一体」といっても、私と他人の赤ん坊のカラダは別々ですから、一体なのは肉体でないことは明らかです。当然、いのちの世界において一体である、ということです。そして、私達が親として、あるいは人間として生長するということは、この「相手と自己との一体感」を広げていく、ということなのではないでしょうか。別の言い方をすれば「相手のことを思いやる気持ち」と言ってもいいと思います。私は、自分の子供によって、この自他一体の気持ちを、少しだけ広げることができました。言い換えれば、人間として生長させてもらった、ということでしょうか。「子供によって親にしてもらう」という言葉がありますが、子供によって人間として生長させてもらうのが、子育てだと思います。