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繁栄ストーリー

生長の家入門 “心で認めたものが現れる世界”

生長の家参議  出版・広報部部長  山岡  睦治

山岡睦治

ありがとうございます(拍手)。先ほど、『日時計日記』のご紹介がありましたが、この日記帳は白鳩会総裁・谷口純子先生が監修されまして、私が部長を務めております生長の家本部の出版・広報部が制作を担当し、生長の家から発行されたものであります。

生長の家の教えとは何かと申しますと、一番短い説き方では、「人間は神の子である」といいますね。この神の子の自覚と人生との関係を大変コンパクトに説かれている所がありますのでご紹介します。この『日時計日記』の「はじめに」という所に、谷口純子先生がわずか3行で書いていらっしゃいます。

生長の家の光明思想では、人間を“神の子”と観ます。その意味は、神が天地を創造されたように、私たちも自分の人生を、明るく豊かに創造できるということです。

ここで“観ます”とあるのは、“認める”と言い変えてもいいですね。ですから、人間は神の子であると観る、認めることが、人生を明るく豊かに創造する根本になるということになります。

私が教えに触れた経緯

さて、最初に自己紹介をさせていただきます。私は静岡県の磐田市出身で、生長の家の教えは、祖母が最初に触れました。実家は貧しい小作農家でしたが、昭和5年、祖母が31歳ぐらいの時に夫を病気で亡くし、幼い4人の子を抱えながら、1ヘクタールの田んぼを耕さねばならない境遇に置かれることになりました。後に知人から紹介され、隣町に住む生長の家の先達の指導を受けたのです。それが昭和10年のことでした。祖母は、「夫に先立たれた」と嘆き辛い日々を過ごしていたのですが、その時、「ご主人は亡くなっていない。霊界から家族を見守ってくれていますよ」という話を聴いて心が救われ、生長の家を信仰するようになったのです。

私の父は、昭和18年にフィリピンに派兵されましたが、祖母は紫色の『甘露の法雨』を御守りとして父に持たせました。19年に父はミンダナオ島で盲腸を患いまして、ダバオの病院に入院しておりました。しかし、日毎に空襲が激しくなり、ジャングルの奥地の分院に移動したその翌日に、それまで入院していた病院は爆撃を受けて全壊してしまいました。父は一日違いで爆撃をすり抜ける事ができたわけです。生長の家で説く「心の法則」には、「類でないものは反発する」という法則がありますが、『甘露の法雨』の御守りとそれを持つ人の波長が爆撃の波長と反発し合ったと思うのです。

またある日、中隊長の伝令役を務めていた父が、中隊長から「御守り袋が濡れたので、干しておいてくれ」と命令されたので、父は「ハイ」と言ってその御守り袋の紐を解いたそうです。すると、その袋から父の物と同じ紫色の『甘露の法雨』が出てきたというのです。別々の経緯で中隊に配属された2人が同じ御守りを持っていたということです。これは同じ波長の者同士が集まる、「類は類を呼ぶ」という心の法則が働いたとみることができますね。

さて、父は戦後、生長の家の教えを信仰して地元で教えを広め、相愛会の静岡教区連合会長も務めました。その様な家庭で育った私も自然と生長の家の教えに触れまして、色々な選択を重ねながら生長の家本部に奉職し、現在のお役を頂いているわけであります。

生長の家の教えの三本柱とは

生長の家入門という事で、生長の家はどういう教えかという事を、ここで纏めてお話させていただきます。生長の家の教えには、唯神実相、唯心所現、万教帰一という3つの柱があります。

「唯神実相」とは、本当に存在するものは、ただ神と神の創られた完全円満な世界だけであるとして、それを「実相世界」と呼んでいます。また、生長の家では、実相と現象をはっきりと区別しておりまして、実相世界というのは、神様の無限の智慧、愛、生命、供給、悦び、調和の御徳が満ち満ちた、至美至妙の大調和の世界であり、これは永遠に在り通している実在の世界であると説いています。

これに対して「現象世界」は、私達の肉体の目、耳、鼻、口、皮膚の五官の感覚で感じる世界でありまして、全体の膨大な情報量を濾(こ)し取ったごく一部の不完全な情報を脳が組み立て直して感じている不完全な、仮に作り上げている世界ですね。ですから、永遠不滅なる実相世界に対して、現象世界は仮の世界であるとし、「現象は無い」とも言います。

次に「唯心所現」というのは、先ほども出てまいりましたが、「心の法則」ともいいます。仏教的に言えば、善因善果、悪因悪果の「因(縁)果の法則」とも言いますね。この現象世界は、人間の心によって造り出している世界であるということです。唯心の「心」とは、コトバとも置き換えられます。コトバとは、行動で表現する身(しん)、発声音の口(く)、心で想う意(い)があり、この身口意(しんくい)の三業(さんごう)を駆使する事で、唯心所現の法則(心の法則)によって、現象世界をいかようにでも造る事ができると説いています。

3つ目の「万教帰一」とは、全ての宗教の真髄は一つであるという教えでございます。

さて、先ほどの唯心所現の法則の説明で、自分の心が現象世界を造るという話をしましたが、自分の心の本体を何と視るかが、つまり人間を何と認めるかが、その人の人生を大きく左右するのです。それは、心で認めたものが現れるという法則が働くからです。

皆さんは自分を何と認めておられますか?「自分は神の子だ」と認めておられる方、手を挙げてください(多数が手を挙げる)。素晴らしいですね(拍手)。殆んど全員ですね。

私の名前の由来と私の転換点

「自分は◯◯である」という◯◯に何を入れて認めるかによって、人の行動が変り、運命が変わります。最近ベストセラーになっているスズキ株式会社の鈴木修社長(兼会長)の書いた『俺は、中小企業のおやじ』(日本経済新聞出版社刊)を読みました。スズキは、今年3月期の決算で、大幅な赤字になった自動車メーカーが多い中で黒字を確保したメーカーのひとつです。この本を読むと黒字となった理由が分かります。それは、鈴木社長が「自分は中小企業のおやじである」という認めによって行動したからだということですね。鈴木社長は、自分の足で工場や販売の現場を周り、自動車市場の動きがおかしいことに気づいて、一昨年から在庫の調整を指示して実施してきたそうです。

これが、「俺は、大企業の社長である」と認めていたら、こんなに早く手を打てなかっただろうと思います。このように、「自分は◯◯である」と認めることが、その人の行動を決めていき、自分の人生を造っていくことになります。

さて、私自身の「認め」の話をいたします。私の名前は「睦治(むつじ)」と言いますが、幼い時、父にその名前の由来を訊きました。すると父は、「睦(むつ)まじく治(おさ)まるだよ」と教えてくれたので、以来私は、周りが騒がしくしていても、自分が大人しく静かにしていれば治まるのだと解釈して、非常に静かな、居るか居ないか分からないような性格になっていったのですね(笑)。

本部に入ってからも、あまり出しゃばらず、周囲との調和を重んじていまして、自分の性格を生物が周囲の色と同化する“保護色”などと評していたりしました。

ところが、結婚して妻に私の名前の由来を話した時に彼女は、「それは違う」と言うんですね。「睦まじく治まるのではなくて、あなたが睦まじく治めるという意味だと思うわ」と言われたのです。そこで自分の名前の意味は「睦まじく治める」ことだと認めたんですね。これが私にとって大きな運命の転換点となりました。

すると、仕事に対する態度も積極的なものに変わったのです。平成4年に当時副総裁でした谷口雅宣先生が初めて北米を御巡錫される際に、随行記者を誰にするかという話が持ち上がり、広報・編集部(当時)の部員だった私は、思い切って手を挙げました。今までの私からは考えられない事ですが、挑戦する気持ちになったのでした。そして私が記者として渡航することに決まりました。それが縁になったかどうかは分かりませんが、翌年、副総裁秘書になりまして、9年間務めさせていただきました。あの時手を挙げていなければ、別のコースを歩んでいたと思うのですね。

その後は相愛会部(現組織運動部相愛会事務課)に異動しましたが、そこで、また自分自身の使命についての「認め」に変化がありました。東京第二教区の教区大会に出講した時に、林野庁出身の方の体験談で、森林の話を聴いていた時でした。私の名前の「山岡」は単なる一つの“山”と“岡”ではなく、大自然や地球環境を象徴しているのだ、私は地球環境を「睦まじく治める」のが使命であると、気付いたのです。(拍手)

それまで以上に地球環境保全活動に熱が入りまして、17年10月に自宅に太陽光発電装置(発電出力3.3kW)を設置したのです。

天地を地上に現わす使命

19年7月に、ドイツで開催されたヨーロッパ練成会に出講しましたが、その講話で使うために、生長の家の「創世記」の解釈をまとめていた時のことです。自分の名前の意味について、またまた「認め」の変化が起りました。先に「山岡」の意味として認めていた「大自然や地球環境」というのは、地球だけのことではなく、天地創造の「天地」のことであったと。そう認めたんですね。その実相世界の天地を現象世界に現わし出し、睦まじく治めるのが私の使命なのだと(拍手)、思い至ったのでした。

“認め”で引き出される無限力

『新版 栄える生活365章』の61頁に次のご文章があります。「先ず自己に宿る"無限の力"を認めよ」という小見出しのところです。

人は自己が想像し、そして信ずる通りのところのものとなるのである。あなたが”神の子”であるということは、神の後嗣息子(あとつぎむすこ)又は後嗣娘(あとつぎむすめ)として神のもち給(たま)えるすべての“力”とすべての智慧(ちえ)とを必要に応じて引き出し得(う)る権利を与えられているということなのである。 (中略)併(しか)し、その力を出すには「認める」ことが必要なのであり、”力”が宿っていても、それを認めなければ”力”が出て来ないのは、財布(さいふ)の中の紙幣(しへい)のようなものであって、自分の財布に「これだけの金がある」とみとめて、初めてそれを使うことができるようなものである。

これが「心で認めたものが現れる」ということなんですね。

“真象”を認める日時計主義

最初に『日時計日記』のことを紹介しましたが、生長の家では日時計主義を生活に活かすことをお薦めしています。それは、人生の明るいこと、善きことを観て(認めて)、記録し、表現しようということです。しかし日時計主義というのは、それだけではないのです。

生長の家総裁・谷口雅宣先生は、『小閑雑感Part13』58頁に次のようにお書き下さっています。

(前略)また、こんなケースはどうだろうか?ー私は今日、ジョギングの帰途、ある公団住宅の敷地内を通ったが、その一角に、金柑の実が地上に散らばっていた。恐らく強風で落ちたのだ。その光景を私は美しいと感じた。が、翻って考えると、同じ光景を見て「おいしい金柑が落ちてしまってもったいない」と感じる人がいるかも知れない。また、「樹の実が風で落ちるのは不吉である」と考える人がいるかもしれない。そういう場合、この光景は“真象的”“偽象的”のいずれだと言えるのだろう?(後略)

“真象的”とは分かりやすく言えばよきことであり、“偽象的”とは悪しきことであります。そこで、この落ちた金柑を美しいもの(真象)として見るか、不吉なもの(偽象)として見るかということですね。総裁先生は先の5月1日の『白鳩会全国幹部研鑽会』で、この部分を引用されて、「同じ現象を見ても、見た人のものの考え方や観点から、それは“真象”にも“偽象”にも自由自在に見ることができる」と話され、この現象の中から“真象”を見つけて、それを表現し、伝えていくことが大切であるとお示しくださいましたね。

ですから日時計主義の生活とは、人生に、美しいもの、善きものだけを認めることはもちろんのことですが、奇跡的なことでなくても、毎日繰り返される“当たり前”の出来事に喜びを見つけてこれを認める。さらに、一見悪しき現象と見えるものや事に対しても、観点を変えて、その奥に美なるもの善なるものを認める。それらを書き留め、表現し、行動していくことであるというわけであります。

どうぞ皆さん、自分の内にある神の子の神性を認めて、毎日の生活の中に、真と善と美を認めて、明るく豊かな人生を創造していっていただきたいと思います。ありがとうございます。(拍手)

◯「第55回能力開発セミナー」(平成21年5月21∼24日)での講話:本部練成道場◯

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